関係資料 1 (2014年3月 越市長への手紙)※クリックしてください

ホームの記事「(7)副市長退任のいきさつ」に関係する資料です。
昨年(2014年)3月11日、私が越直美市長に差し上げた書面の写し。原本でも個人名は一切出していません。ブログ掲載にあたって何か所かの記述を伏せ、「(中 略)」として表記しました。




越直美市長さま

市長任期の後半が始まりました。これまでの2年間、実にさまざまな出来事があり困難を感じられたことも多かったと思います。そうした中、市長がご自身の目標を目指し一貫して精力的に仕事に取り組んでこられたことは私も十分に存じています。
しかし、そのお仕事振りがよい結果ばかりを生んでいないことに市長はお気づきでしょうか。
むしろ私は、市役所内部では負の側面が目立ちつつあって、職員の意欲減退が蔓延していることに大きな懸念をもつものです。今日は覚悟を決めて幾つか指摘させていただきますが、市長におかれては見解の違いと一蹴されないことを願います。私は40年勤務し、今も多くの職員から真摯な訴えを聞いたり腹蔵なく語り合う関係にあり、少なくとも市長よりはよく職員の本音と市役所の実態を知っています。
そのほか外部の存在である各種団体や個人、議会等々からも実にさまざまな意見を聞いていますが、これらを踏まえて申し上げようとするものです。
もちろん市長はご自身のチャンネルで情報を得ておられるでしょうし、また逆に市長からご覧になって、私を始め職員の仕事振りにご意見(「こちらこそ文句を言いたい」という部分)もおありでしょうが、その主なものは、ここで私が申し上げようとすることと表裏一体の関係にあるだろうと推測します。視点が変われば景色も変わります。前にも長い書面をお渡ししましたが結局お心に届かなかったようです。
今回はもう長々書きません。

まず申し上げたいのは、職員、さらには公務で応対される関係者の言うことに真剣に謙虚に耳を傾けるべきだということです。
1月に一職員がある行動に出ましたが、その原因の最たるものは「市長が聞く耳を持たない」ということにありました。市長は、行政の事務は権限と責任を持つものが決定するのであり見解の相違は致し方ない、とのお考えでしょうか。当該職員が繰り返し市長に説いたのは、公務執行にかかる現行制度の秩序の維持であり、市長がいま現に存在しているルールを度々無視されることにも危機感を感じていました。
そして ( 中 略 )、 それは市長が聞く耳を持たなかったからです。
聞くとは「傾聴」と「受容」の2面があり市長にはどちらも決定的に不足しています。
傾聴の不足については、特に市長の気持ちがある方向に傾いているとき時など、まるで両耳に耳栓がはまっているかのようです。あまたある懸案協議の後に、職員から「市長はぜんぜん聞いておられませんでしたね」との言葉を聴くことがしばしばあるのはまことに残念です。市長としては忍耐して聞いておられるつもりでしょうが、相手の認識との乖離は非常に大きいものがあります。
受容の不足についてはなおさらで、自分と異なる意見を先入観を捨て柔軟な気持ちで検討してみようという姿勢が全く欠落しています。これは、「信念に基づき自己の考えを貫く」ことと似て異なるもので、市長の場合は、いったん一つの想念や価値判断を持つと、そこから容易に抜け出せず(繰り返しそこに立ち戻り)、どうしても次のステップに進めないという思考パターンがありますが、これが意志の大変にお強いことと相俟って発展的な議論を阻害しています。

国保料の値上げ協議において、「昨年に料金改定しなかった」という過去の事実に固執されたこと、あるいは幼稚園のエアコンの実施設計を行うかどうかで、「幼稚園全体の再編計画が示され施設の統廃合のめどが立つこと」との前提条件を余りに重要視されること、さらには市民スポーツ課の単独課、複合課論議などが最近の例として思い起こされます。
勿論こうした市長の態度、判断は合理的な側面を有しており、また一般的な政治姿勢の反映でもあり得るわけですから、市長としては不当な言いがかりのようにお感じかもしれません。しかし、他人の意見を容易に受け入れようとしないご自身の性癖をしっかりと自覚される必要があります。
( 中 略 ) ある職員が私の聞き取りに対して「職員は市長との関係性において疲弊している」と指摘しました。その際は私自身の意見を言わず聞き取りに徹しましたが、内心は私もまったく同感でした。私の知る限り「市長は職員の声に耳を傾けてくださらない」と感じていない職員は一人もいないでしょう。
議会筋からも同じような感想が聞こえてきます。各議員からも、二元代表制の趣旨を生かしてより良い市政を目指す上で、また職員のモチベーション向上の観点からも深い憂慮の声が聞かれます。
さらに市役所の外部の組織や機関の関係者からも同様のことを聞きます。この2年間で「市長は聞く耳を持っておられない」は定評になりました。
私は決して人の言いなりになってくださいと申し上げているわけではありません。
傾聴することは議論を進め、深めていく上で必要であり、正しい結論への近道ともなりえます。仮に相手の主張を退けるとしても、実はその場合にはなおさらのこと、傾聴することに意味があります。
受容については、その中身を是としなければ出来ないことですが、小異を捨て大同につく姿勢や、「あなたがそこまで言うならその考えを呑もう」という態度も、人を動かし、組織を束ねていく上で重要であります。もっとストライクゾーンを広げることが組織の長として大切です。
大きな権限を持つ者として、もっと柔らかく心を開いて人の言うことに耳を傾けてください。

次に申し上げたいのは組織の長として「部下に任せる」ことと「細部にこだわらない」ことです。
市長が市政を進める上で、3千人の職員のモラルと意欲を高い水準で維持し、市民のために十分に働かしめることが何よりも重要です。そのためには歯車でもロボットでもなく生身の人間である職員に対し仕事の遣り甲斐、手応えや喜びを感じさせモチベーションを高めること、同時にそうした職員が組織する集団のダイナミズムを十分に発揮せしめるような「仕向け」をトップ自身が行うことが大切です。その仕向けとは、大きな方向は示すものの細部にこだわらないこと、任せること、責任はトップが負うと宣言することに尽きるのではないかとすら思うものですが、市長は、この点においても大いに反省される必要があります。

任せられないのは市長としての責任感のなせる業でもありましょうが、市長は本市の膨大な事務事業のすべてを掌握して細部まで自分の思い通りに進めたいとの欲求が強すぎます。度を越すと私物化です。
市民から選ばれたことが市長の権限の源ですが、市民は市長の個人的意見に対し白紙委任した(好き勝手にやることを認めた)わけではなく、組織の長として適切に振舞うこと(公人に相応しいリーダーシップを発揮すること)によって市行政の総合力を遺憾なく発揮させてよりよくマニフェストの達成をめざすことを期待しているのです。
組織を生かさないといい仕事はできませんが、市長の今のやり方では組織が生きません。

これまた市長からご覧になると、「不祥事対策でもマスコミ対応でも危なっかしくて任せていられない。逆に安心して任せられるようにしてほしい。責任を取るのは自分である」ということになると思います。
しかし市長が就任される以前から市役所はあるわけで(さらに「そのあり方がいけない」ということになるのかも知れませんが)自己のやり方のみが最良とは限りません。
当然ながら、任せるということは、細部まで自分の思い通りに行くわけではありませんからそれを良しとする度量が必要です。基本的なベクトルさえ一致していれば大いに任せるべきで、そのほうが組織の総合出力が増すと思うのです。現実にも、これだけ大きな組織ですから任せないと仕事は円滑に回りません。
例えば、以前は部局長にもう少し裁量が認められていました。地元との交渉、事業実施の約束、予算の執行などの面で一定の範囲内ではありますが、まさに部局の長として、もっと主体的に動くことが容認されていましたが今はそうではありません。彼らの多くが閉塞感を感じています。
彼らの遣り甲斐を奪って自らの全能感を補強しているのが市長のやり方です。

聞く耳を持たず、細部まで思いどおりにしようとされる姿勢が目立った最近の例は、新年度予算の査定でした。
年始から連日、深夜に及ぶまで新年度予算の査定を行われましたが、大変に時間がかかり、その割に議論が深まらなかったのは、全くもって市長の姿勢によるものです。そもそも小事業の一つ一つまで市長が点検して万円単位まで意見を通そうとなさるのはいくら何でも行き過ぎです。
財政課は、総合計画と市長マニフェストの推進のため厳しい財政状況の中で財源確保に努力しながら細心の査定を行っており、これに同課職員が手間ひま惜しまず本当に全力で取り組んでいます。
その結果、予算編成は、市長査定の時には登山で言えば8~9合目までの高みに達していますが、その地点から登らず逆に麓まで戻って一々別ルートを探るようでは、いくら時間があっても足りません。財政課の職員からは「これでは我々は必要ない」とのぼやきが聞こえてきます。
各部長にとっても、予算編成方針を踏まえて部内でさんざん議論し、財政課と協議を重ね、ようやく内示額を得た事業が査定の場において市長のひと言で値切られ、後はいくら説明しても聞いていただけない、しかも多くの部下がその様子を見ている、これでは全く救われません。これが市長のやり方です。
かく言う私にしても、高齢者の紙おむつ補助を巡って、利用者のニーズの高い「使い捨て手袋」を新たに対象品目とすることについて、私が薬剤師会長との意見交換や担当課からの話を聞いて必要性を感じ、部長に検討を指示し、財政課が若干の金額を入れて市長査定に上げてきたものを、市長から削られることとなりました。私も主張を貫徹できずに引き下がったわけですから今さら恨み節ではありませんが、副市長でさえこの有様です。

市長からすると、今回、部局シーリングを設けていない中で総事業費の伸びを抑えながらご自身の重要視される分野に予算をなるべく多く振り向けるために努力を厭わなかったということになるのでしょうが、あそこまでなさるのは不適切です。
予算を振り向ける先として保育園整備や英語教育、重点分野への外部人材登用などがあり、マニフェストにもとづく市長の姿勢として皆、理解しています。しかし一方で、削られた部分と対比してバランスを欠くのではないか、このうちの一部でもそちらへ回したい等との切実な声が実際かなりありましたが、申し上げても無駄という諦めムードの漂う中、つぶやきに終わりました。「そこのけそこのけ市長が通る」と陰でささやいた職員を私はきつくたしなめましたが、これが実態です。
ちなみに、ある部長がある時、次のようなことを私に語りました。~どうしても重要な事業を進めるために市長の考えを変えていただきたい場合、「これを認めていただかなければ私は辞める覚悟です」というしかないと感じている。しかし市長は「ああそうですか。どうぞお辞めください」とあっさり言われるかも知れない。部長何人分の首を差し出しても、一旦固まった市長の考え方や感じ方を変えてもらうのは至難の業である~ これを聞いて私は、残念であり職員に済まなくも思ったものの何とも言いようがありませんでした。

さて、英語教育充実の取組は今回の議会質問でも取り上げられましたが、市長と教委との間に適切な役割分担と連携協調が図られているかという点が主な関心事の一つでした。
これまでから市長は教委担当者を呼んで様々な指示や依頼をされ、教育委員と協議を重ねられ、また事業ヒアリングや予算査定の場において発言や指示をしてこられましたが、これら一連の経緯を振り返り、地教行法などの規定も考え合わせたとき、私は、市長が(熱意のあまりにせよ)教育の中身論議に踏み込み過ぎであると感じています。教育委員会の意思を軽んじた踏み込みは越権行為です。
先日の教育委員との協議の席上、私がその懸念を申し上げたところ市長との議論になり、市長から発言を控えるよう求められました。そしてその後、教育委員との限られた協議時間を有効に使いたいから今後は協議に出席しないように、と求められました。これについて私は一旦承諾しましたが、今議会での出来事などを踏まえて一つ条件をつけさせていただきたいと思います。すなわち、私の不参加の趣旨を市長から教育委員に十分説明していただき、それで良しとする意見が一人でもあれば市長の仰せに従いますが如何でしょうか。

別の例として、ある計画の策定過程において(その場に私は居合わせていませんでしたが)、計画の細部にわたる修正指示を何度も繰り返して行われた(見え消しの修正バージョンが何十版かにのぼった)と聞いており、修正協議は深夜にも休日にも及びました。これもまたトップが関与する通常の程度を逸脱していたと思います。
国の動きとの同時進行(あるいは先取り)であったことから法律家との協議を行ったことや、この計画によせる市長の並々ならぬ思いもあるわけですが、それらをいくら割り引いても行き過ぎです。
ある幹部職員は、繰り返し細々とした指示を出される市長と、日常業務の傍ら修正作業を繰り返すスタッフの板ばさみとなり、支援を依頼した専門アドバイザーにも気を使い、しかも策定が大幅に遅れていく中で、いつ辞表を提出しようかと毎日真剣に考えていたと後で聞きました。極めて能力が高く、粘り強くて頼りがいがあり経験も積んだ職員がそこまで追い詰められていたと知って私は衝撃を受けましたし、職員とのパイプ役を自認しながらそれに気づきもしなかったことに責任を感じました。
こうした経緯で時間と経費を上積みし皆の苦労のうえ完成した計画ですが、関わった職員たちには終始一貫して細部までリードされた市長個人の計画という感覚があり、組織の成果であるという達成感や喜びは希薄の模様です。
これは、職員たちが私に「告げ口」したのでは一切なく、策定後、私がその労をねぎらいつつそれまでの経緯を詳細に尋ねたことに対して、ようやく重い口を開いたものであることを念のために申し添えます。

さらに言いますと、市長は職員との各種協議(例えば、補助金、人事、処分、庁舎、プール移転、施設のあり方検討などの協議、細かくは生涯学習や文化などテーマ別協議)においてご自分の望む結論が得られない場合、繰り返して調査、検討、資料の再作成などを指示され、再協議、再々協議と回を重ねて決定が長引くことが多いのにお気づきでしょうか。
責任ある判断を下される立場として当然でもあり、時に協議資料が未熟の場合もありますが、仕切り直しの再々協議は程度問題であり、度が過ぎるといたずらに手間がかかり結論を見るまでに長い時間を要することとなります。市長の了解を得るのに組織として過度のエネルギーを要することとなり、時間外勤務の増加にも直結します。
 こうしたことの一つの結果として、近頃は市長協議が不人気です。多くの場合、出席する職員にとって内心、とても気の重いひと時になってしまっています。本来、行政トップと行う協議は職員にとって重圧を伴う反面、遣り甲斐、手ごたえ、時に大きな喜びを感じられるところの、大げさに言うと晴れの舞台でもあるわけで、特に若手職員にはこうした経験を積ませてやりたいのですが現状は大変残念です。
 ともかく聞かない、任せない、決めないの3拍子がそろって市長協議が増え続け、市長ご自身および部下の多忙につながっています。
 
短くと言いながらここまで長々と書き連ねてきたのは、具体事例を振り返っていただくことにより信念と決意の鎧を身にまとわれた市長にも普段とは異なる眼差しでご自分を省みていただきたい、周囲との乖離にもお気づきいただきたいとの一心からですが、今議会の英語教育に関する代表質問もまさにその具体例となりました。
今回の代表質問で、教育委員会制度改革に関連する市長の発言についてコンプライアンスの視点から問いかけがあり、再問に対して私が急遽答弁することとなりました。その内容は、統括代表権を有する市長が地教行法を守ることの重要性の指摘と、教委とのよりよい連携を図っていく市長を副市長として支えたいとの態度表明でありましたが、その後、市長は、この内容がご自身を十分に擁護するものでなかった(もっと応援してくれても良かったのに)との感想を私に漏らされました。
また、再問に対するもう一人の答弁者は、市長と教委との協議における市長の姿勢について、より直裁に見解を表明されました。このことについての市長の感想も私は伺いました。

そこで改めて感じたことですが、市長は、今回問われた教委との関係についてご自身に反省すべき点が無く、すべて相手方に非があると解釈しておられるようです。私には信じがたい状況認識です。
昨年5月31日には ( 中 略 )、 その後には議会の合同審査会も開催されました。教委とは様々なやり取りがありましたが、そこから学ぶところはないのでしょうか。
これまた、ここまで私が申し上げたことと深く関係する事象です。

昨年4月に市長に長文の手紙を差し上げましたが、ここでいま関係する項目だけ列挙します。各項目は市長の政治姿勢に対する僭越ながら批評であり、ぜひ改めて欲しいとのお願い事項でもありました。
最初の項目は「身内を大切にしない行政運営」です。議会や市民団体等、共に本市のまちづくりを担う近い存在との丁寧な関係構築の重要性を申し上げ、反面、「身内」よりも遠方にいる圧倒的多数者に語り
かける手段としてのメディア対応に軸足を置きすぎていると指摘させていただきました。
次の項目「目的のために手段を選ばない姿勢」については、教委との関係あるいは職員の処分等において、市長がまさにそのような姿勢であったと私が考えたもので、適切、適法なアプローチをお願いしたところです。
また「職員へのまなざし」の項目では、市長の様々な言動(各種事業費の査定、人事異動の内容、ヒアリング時の発言、マスコミ発言等々の総体的な評価)により、市長は職員を本当に大切には考えておられず信頼もしておられないと多数の職員が感じていることをお伝えしました。
そして、いつもどおり「情」の大切さ、目の前の相手の心情を洞察し、その相手の背後にいる部下や仲間、さらには家族などの存在にも思いを馳せる想像力の大切さ訴えさせていただきました。
いま、これらを思い出し、市長が多少なりとも私の言葉を受け止め行動に移して下さったのは「市長にふさわしい服装」に関する部分だけ、後の項目については、全く無視どころか、さらに悪化の程度を増してこられた気さえいたします。
ここで「情」について付言すれば、昨今、市長は教育委員会不要論を公に唱えておられます。その内容と表現の是非はさておいて、越直美氏が市長を務められる大津市の教育委員会には、市長が選ばれた教育委員 ( 中 略 )、 更には多数の事務局職員が職務に励んでいます。共に困難に向き合ってきたこれらの生身の人間がどのような思いで市長の発言に耳を澄ましているかについて、市長は思いを馳せる瞬間はあるのでしょうか。
市長の発言は制度論であるとして免責されません。市長の膝下で、現にその制度のもとで日々働いている人々にとって、市長の言葉は自分たちの存在意義の否定にも繋がりかねないということについて、市長は全く顧慮がありません。これが情の欠如の一つの現われです。

冒頭に、私は職員や市の関係者から様々な意見を聞いていると申しました。これは嘘ではありませんが恐らく市長にはあまり実感がないことと思います。そうだとしてもある程度は無理からぬことで、それは市長という特別なお立場(いまやすっかりお慣れになったと思うのですが)によるところが大きいと考えます。
市長は職員にとっては絶対的なボスであり、対外的にも大津市行政の代表者として大変大きな存在です。結果として、少なくとも職員では直言する者が極めて稀です。仮に反対意見を言う場合は言い回しに気
をつけ、慎重にソフトにと心がけますし、時に代替案をセットで申し上げることもあるでしょう。
 外部団体などの場合も概ね同様で、私に対し舌鋒鋭い批判を展開する人々も市長に対面すると紳士的になり過ぎてしまってマイルドな表現に終始しがちです(もっとも、我々は平素、あまり面と向かって悪口は言わないものですが)。
 そもそも、市長に物申そうという外部の団体、個人、機関等は、前もって、副市長、部長、次長、課長、或いはそれ以外の職員に対して、怒り、憤懣、苦情、批判等々をぶちまけ、対する職員から言葉を尽くした説明、釈明、時により謝罪(待たせたり変更したり期待を裏切ったり、当方に非がある場合もあるゆえ)を受けているのが通例であり、市長面会時には訴えの情念が大幅にパワーダウンしている場合が多いのです。これは我々の当然の役割なのですが、このような防波堤があるために市長が気づきにくいという事情もありましょう。
それやこれやの事情の上に耳を傾けない市長の姿勢も相俟って、市役所および周辺に、市長には言っても仕方ないとの気分が広がっています。

一方、市長ご自身は忙しい内務の傍ら国へ出向いて意見を言われたり、各地の首長はじめ各分野、各層の方々との意見交換などを通して知見を広められ、さらにはマスコミもしっかりと使いながら自らの存在と考えを全国に発信することにより、政治家としてのパワーアップを図っておられます。
そのことをとやかく申すものではありませんが、こうした精力的な活動とそれがもたらす成果の手応えが市長の自己肯定の大きな力となっているように思います。
ここでまとめて申しますと、マニフェストの実現に取り組んでおられる市長は、就任後2年の経験を積まれ努力の結果としての大きな自己肯定の感情を抱かれていること(これはあくまで推測ですが)、市長への直言が稀であり気づきの機会が少ないこと、基本的姿勢として人の意見を容れないこと、極めて大きな権限を持ち、またそれを十分に自覚しておられること、身近な存在を大切に扱われない傾向があること等々の帰結として、市長は裸の王様になりつつあると私は思っています。
市長からご覧になると私など井の中の蛙かも知れず、蛙の言いがかりと受け止められるかもしれませんがもう少し書かせていただきます。
裸の王様になりつつあることの証拠(?)として、既に細々と述べてきた事象がその程度を増していることがまず挙げられます。自己反省に乏しく他罰的傾向が強まっていると感じます。

次に、選挙で選ばれた市長の声は市民の声であるとして自らを絶対視しようとされること。
選挙の結果は最大限に尊重すべきですが、市民は白紙委任をしたわけではありません。選ばれた者として、マニフェストの具体的記載内容、投票率、得票率等も考慮し、声なき多数者にも耳を傾ける心持で謙虚に市民負託の中身を考えることが大切ではないでしょうか。
ちなみに先日、教育委員会制度の改革に関するある新聞社のインタビューで、「制度改革後に偏った思想の持ち主が首長になれば教育現場が混乱するとの懸念があるのではないか」との問いかけに対し、市長が、「偏った思想の首長は勝手に降ってくるのではなく有権者が選挙で選ぶ。選挙で審判を受けているのであれば、たとえ思想が偏っていてもそれが住民の多数意見だ」と述べられたと報道されていました。
市民の選択について質問者の言葉を引きつつ分かりやすく説明されたのだとは思いますが、本当に市長、お気は確かですか。選ばれた存在であることについて思い上がった気持ちはありませんか。
極端な話で恐縮ですが、私などはナチスが合法的政党としてスタートした歴史を想起しました。

もう一つの端的な例として、協議の席上、副市長として私が申し上げる意見を個人的意見である、あるいは間的余裕がないとの理由で簡単に斥けられることが、最近、増えてきました。私の意見は自らの認識を申し上げることもあり、声を上げにくい職員を代弁する場合もありますが、ひっくるめて意見を聞くために副市長を置かれたのだと私は思っています。
ところが市長は副市長を「筆頭部長」くらいにしか見ておられません。この例証は沢山あるのですが、さすがに馬鹿らしくて一々書く気になりません。
私は凡庸であると自覚していますが、有り難いことに職員から一定の信頼は得ていると思っています。
市長は、良くも悪くもこうした人間を副市長に据えられたわけですから、もう少し信頼し委任していただく部分があって然るべきと考えますが、既に書いたとおりの市長の姿勢であります。
副市長や部長など市長のお神輿を担ぐ者をそれなりに遇すると、担いでいる肩の位置が高くなり、お神輿に座る市長の高みも更に増してお仕事がしやすくなるという「実利」もあります。意気に感じて人を働かせるのも重要だと思いますが現状は残念です。

もう一つ加えます。
最近、我が儘が目立ちます。
市を代表して出席する対外的かつ重要な会議、大会、イベント等への出席を、特別な理由なしに拒否されることも一例です。特に市長会、自治創造会議、後期高齢者広域連合議会、市町村研修センター議会など本人出席が極めて望ましいものや代理が利かないものについて、市長の欠席は本市の利益の上からも他市の市長とのお付き合い(円滑な都市連携)の上からも出来る限り出席していただきたいのです。
その他のイベントなどでも、まさに選挙で選ばれた市民の代表として市長の出席が相応しく、主催者も切望することが多いのですが、これも出不精もしくはえり好みの傾向があります。
市長としてはあれこれ出席して現状で十分に多忙であるとお感じかもしれませんが、初心を忘れられたのではありませんか。

以上、裸の王様の懸念材料を並べましたが、このように2年が経過する中で、市長による「職務権限を背景とする一定範囲を超えた言動」が職員に対してあったとの話を私は複数例、聞いています。
市長はわざと嫌がらせをされる方ではないはずと考えておりますので、おそらく自覚のないままに相手だけはそのように受け止めていたと考えられる事例です。市長としては怪しからぬ言いがかりと思われるでしょうが、ご存知ないところでこんなこともあるのですよ。
幸い、大半は、本人が過ぎ去ったこととして今は問題にしていませんが、中に私も案じているケースが一つあり、これについては市長にも協力いただき、しっかりと検証していく考えです。

長くなってしまいました。市長に正していただきたいことを連ねましたので悪口ばかりになってしまい心苦しいかぎりです。これも市長にお分かりいただきたいとの一心からです。そのためには、対外的に現れる「姿勢」のレベルの指摘に留まっては不十分だ、市長がご自身の心理や人格といった深い領域から自己分析をされるように求めたい、そこまでしなければ結局はお分かりにならないだろうと思いましたが、それは当方としても推測を多く含むことになりますしやはり不躾と思い直して止めました。
あえて市長の優れておられる所は一つも書いていません。市長は、私が意地悪く欠点ばかりを観察していると思われたでしょう。
しかし、特にここ数ヶ月の間に行われて来た教育委員や事務局との協議、市の内外の事件の対応協議、職員処分の協議、予算査定、人事協議、議会答弁等々を振り返ってみて、私は市長のなさり方に大きな疑問と危惧を感じていますし、本当に多くの職員からも同じような声を聞いています。
市長と周囲の乖離は広がるばかりで、私も、そばで支えるべき副市長としての責任の重大さを痛感する日々です。昨年差し上げた書面で、私の心情を「針のムシロに座っている」と表現しましたが、いまはその膝の上に重石が乗っているようです。
そこで、その都度申し上げてきた意見とは別に、市長のお心の底に届くよう、あれこれ事例も引きながら書かせていただきました。市長と同じく私も多忙であり、土日や夜も含めて少しずつ書き足した結果、まとまりも明晰さもない長文になってしまいましたが、書き直している暇がありません。
私は、常時、市長のことが頭から去りません。それこそ仕事中も休日も夜に目覚めた時も市長のことを考えていて不眠の原因にさえなっています。そして思いを何とかお伝えしようと書いた手紙ですから、これは一種のラブレターです。しかし私一人の思いではありません。

もしこれを私の個人的な解釈、考えによるものと受け止められるなら、他の複数の職員に率直にお尋ねいただくこともよし、私としても、例えばこの文書を部長会出席者の連名にして出しなおすことも辞しません。すべての部局長および殆どの任命権者の記名が得られるはずです。
それでも不十分とお考えなら、私はこれを掲示板に載せてすべての職員に問いかけたい、職員すべての声として市長に受け止めていただきたいとすら思うものです。さわやかミーティング以外にも市長として職員の生の声を聞くことは大切です。こうした手段に訴えてでも市長にお分かりいただきたいと思っています。この手紙は、昨年の手紙と同様、固有名詞を使っていません。基本的に私信ですが多数の代弁者として公人に出す手紙であり公開も大いにありうると想定してのことです。

これを機に市長は目覚めていただけるでしょうか。路線を変えていただけるでしょうか。謙虚になっていただけるでしょうか。私のお願いしていることは市長にとっては自己変革ともいうべき自省です。
私は、市長が任期後半を迎えて重大な岐路にたっておられると思います。
市政は預かり物であり所有物ではありません。職員も同様です。大切にして次に引き渡していくものです。
市長は今のままで突っ走られるのか、深く考えなおして改めるべきは改められるのか、私の今後もその一点にかかります。この書面を読んでさぞご気分を害されたことと思います。私も至らぬ人間ですから資格があって言うのではなく、必要に迫られて義務と感じて申し上げるのです。
副市長就任の挨拶式で述べた気持ちで仕事に取り組んできましたが、今は転機、市長の岐路は私の岐路でもあって、すでに自らの退任式の挨拶も考えてあります。
市長は、これまでの市長とは異質の素晴らしいポテンシャルがあります。それを生かしてよい市長になっていただきたいと切望します。もうこんな書面を出すことはないと思いますが、万一あるとすれば、次は是非ともファンレターにさせてください。


2014.3.11                    茂 呂  治


3 件のコメント :

  1. 茂呂副市長の人格や手腕は職員だけでなく、関係団体としても、また地域の方々もよくよく存じあげています 茂呂副市長がいらっしゃらなくなってからの大津市は……

    返信削除
  2. はっきり言って職員は諦めてます。
    何も言いません。

    返信削除
  3. 全くこの通りの実態です。市長が職員や市民の声を聞かない事も問題ですが…先日退職した課長のように真面目な人が、辞めてしまう事で、大津市政が停滞していく事が心配です。

    返信削除

1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。